若い頃はシンガーソングライター、ラジオのDJでした。
多分、19才の時、マイナーレーベル「バイキングシリーズ」で自分の曲を2曲リリース。このLPには「やしきたかじん」も参加している。
多分、20才の時、ビクターPOPより「女子大生ブルース」で、歌手デビュー。これは元は自作の歌詞でしたが、レコードリリースに際し、阿久悠さんが作詞されました。
多分、21才の時、東芝EMIより「四季の歌」リリース。四季の歌は大学生協のイベントで沖縄に行ったとき、参加していた学生さんに教えてもらった。元々。東芝さんでは、作者不詳でリリースされる予定が、ビクターさんからも同じ楽曲がリリースされるとのこと、この時、ビクターさんは作詞作曲者名を明記されたので、それに同じとなった。時系列が定かではありませんが、リリースは確かにされました。(笑)
続いて、東芝EMIよりシャロムの歌、LP「四季の歌(フォークとは私自身です)」がリリースされた。
あっ、コロンビアからもあのねのねとオムニバスでLP出たなぁ〜。ラジオでは以下のレギュラー: ラジオ大阪、KBS京都、FM大阪などで深夜番組を半年から1年くらい担当。MBSラジオではがっぶりトークと言うトーク番組にも半年ほど出演した。また、当時六本木にあったワーナーパイオニアと言うレコード会社に出勤。約1年ほど、「あのねのね」のマネージャーやったり、広報やったり、舞台監督のようなことをした。河島英五などもこの頃一緒にツアーに行ったりしてる。そうそう、ディレクターとして、NAC(アコースティク・コーラス・バンド)元フォークチーズも手がけたような…。(笑)ドサ回りの連続で、今で言えば全国ツアーですね。あまり睡眠が取れずに夜か昼かわからない生活をしていた。いつも、飲み過ぎで体調が優れず、多分、24才でリタイアするも、26才の時に再び四季の歌が再ヒット芸能界カムバック。このリタイア中やったか、なんやこの時ぐらいか、関西テレビ(KTV)でローカル番組で「奥様リビング」と言う番組のコーナーで「近くに行きたい」というのを担当させてもらった。この時にテレビの出かたを教えてもらいました。プロデューサーの前田さんやヤナさん、いろんなスタッフのみなさん、ありがとうございました。
復帰後、TVではNHK全国ネット「土曜昼席」に半年レギュラー出演。毎回、社会風刺風の楽曲を作って、コーナーで歌っていた。また、MBS全国ネット「ヤングOH! OH!」に半年レギュラー出演。今月の歌を半年も歌っていた。その曲は、「嗚呼!花の高校生」 ♫なんにもないからゴーロゴロ…(ご存知の貴兄も多いと思います)、この曲はCBSソニーからリリースされた。
この頃、私の歌のコーナーで客席通路で踊っていたのが、スクールメイツ。時すでに、谷寿美や綾瀬智子もいたと思う。きーやん、Maki先生はもうちょっとあとかな?!(笑)この私のカムバックに際し、ご縁があって、東京音楽学院大阪校(スクールメイツ)に一時的にタレントとして在籍する。この学校は渡辺プロダクションとOBC(ラジオ大阪)との業務提携の形で、1967年に大阪・西天満に開校。当時、2000名の若者がオーディションに殺到したとのこと。以来1986年まで、スクールメイツとして、各TV局への出演~番組オープニング・テーマや、松田聖子・西城秀樹・郷ひろみ・ジャニーズ系のタレントさん達の、バックダンサーとして活躍致しました。で、その大阪校の理事長に就任してしまった。26才の時。1970年代後半には早くも(株)ISPを設立。ハーマンズ・クィーン、スクールメイツピープルとして、ポリドールやエピックソニーよりレコードリリースしました。もちろんテーマパークや御堂筋パレード、行政イベント等への出演は常連でした。 そして、1980年代には、USAでのMTVデビュー、ミュージカルレビューロングラン公演や中国(上海・北京・天津・西安)での文化交流公演に続きオーストラリア・ブリスベンでの国際レジャー博日本館でのレビュー公演等。帰国後、NHK全国ネットで全編中継録画にてOn Airされた、ミュージカル「ダンサー」(主演:谷寿美) そして、本格的なミュージカル公演へと続きます。これらをプロデュース、プロモーションしてきました。あ〜、怒涛の我が人生。(笑)
時代の変遷の中で、逸早く本場アメリカ(LA. NY.)に研修を重ね、アメリカよりダンス・インストラクターも招き、スクールメイツだったダンス大好き人間は、目もくらむようなダンサーへと成長しました。現在のISP/FWDSのトップダンサー「谷寿美」先生や綾瀬智子先生なども、元はといえば、スクールメイツの一員でした。そして、1986年春、アメリカ村の文化に着眼し、アメ村に新たにフリーウェイ・ダンススタジオとして創設。

この1980年代は今となればバブリー時代で、ちょっとした才覚があれば、ほんのちょっとした…才能かな…があれば、誰でも何かできた時代です。私はといえば、怒涛の 20年を過ごします。夜か昼かもわからない、有名著名人だらけ。きわめつけは、Jさんのお家にお伺いしました。女の方はダメなんで…とホテルで打ち合わせして、男性陣だけでJさんのお家に向かうことになったが、部長さんが携帯電話片手に手招きをするので駆け寄ってみたら、一緒に来て下さいとのこと。きっとJさんちに行ったのは私だけ〜と思っていたら、和田アキ子さんがうちも行った〜とのことでした。(笑)
いつも旅をしていて、ここがどこかわからない状態でした。財布の中にはいつもドル紙幣があり、パスホートも印の着く場所がなくなり、別冊がひっつきました。以下、(株)アイエスピーよりコピペ。いずれもプロデュースしたか、演出したか、時にはアドバイザーやったり、マネージャーしてたか、そんなもんです。(笑) 他にも、京都の映画村や箕面温泉スパーガーテンや御堂筋パレードや…、その節は大変お世話になりました。有り難うございました。

1980年
– シングルレコード「ストロベリークィーン」 ポリドールよりリリース
– シングルレコード「飛び出せザラマンダー」 SMSよりリリース
1984年
– シングルレコード「オーバーナイトサクセス」 エピックソニーよりリリース 
-「ダンシング・ドールズ」 製作上演。(於:大阪城音楽堂)
– 株式会社フレッシュウインド(現フリーウェイ・ダンススタジオ)を設立
– ミュージカルレビューダンシング・ドールズ」の製作上演。(大阪野外音楽堂)
– フリーウェイとして、以下の海外遠征が続きました。
  中国「北京」「天津」にて公演。約2週間滞在、中国広範 TVにてON AIR
  USAラスベガス・ラーフリンにて、ミュージカルレビュー
 
1985年
– 中国広範芸術団の招聘により「北京」「天津」にて公演。中国広範 TVにてON AIR
– USAラスベガス・ラーフリンにて、ミュージカルレビュー「ダンシング・ドールズ」 製作上演。
  総勢18名で3ヶ月のロングラン公演を行う。
– USA ハリウッドでショー・デビュー。約8ヶ月USAに在住
1986年
– 株式会社フレッシュウインドを株式会社フリーウェイ・ダンススタジオに社名変更。
– ラジオ大阪・渡辺プロダクションの承諾の元、新たにアメリカ村にフリーウェイ・ダンススタジオを創設。 この新スタジオのOPENING PARTYには、アメリカより”シャバドウ”が駆けつけました。映画「ブレイクダンス」の主演で当時日本でも人気がありました。LOCKダンスの元祖みたいな映画かな?!
1987年
– 川上のぼる中国公演の製作協力・上演。再び中国「上海」「西安」にて  11名のダンサー&シンガーが3週間に渡り公演
– USA ハリウッド製作にてISPオリジナルMTV製作
 音楽: Robert Kraft
 振付: Resell Creak
 撮影: Perter Mackoy
1988年
– オーストラリア・ブリスベンにて、国際レジャー博「日本政府館」メインショー「ダンシング・ビート・ジャパン」の上演。  総勢10名が8ヶ月オーストラリアに在住
– メイツカンバニー設立10年を記念して、記念PARTYを開催 於: リーガロイヤルホテル
 ゲスト: 「フラッシュダンス」でヒットを飛ばしたアイリーン キャラ(その人の歌声は下のYouTubeです。及び前出のロバート クラフト・ラッセル クラーク等アメリカより駆けつけました。
(あちらこちらのサイトで、映画「フラッシュダンス」はヒップホップダンスと紹介されていますが、紛れもない嘘ッパチ。あれはジャズダンスです。この映像をみて、ヒップホップと思う人がいたら、このプログにでも書き込んでください。ダンスの途中で振りとして、背中でクルクル回るブレイクで云うバックスピンと云う技が出てきますが、だから、これがブレイクだとかヒップホップだと紹介するのはどうなんでしょうかね〜(笑)当時、うちのダンサーたちも、多いに刺激されて、ウインドミルの練習をしていましたが、「技はつきません出したが、アザがつきました」とコメントしていました。(笑)

1989年
– 名古屋デザイン博にて”I LOVE N.Y.” の上演。 6ヶ月のロングラン。驚異的ヒットとなる。
1990年
花と緑の博覧会にて、以下の製作・上演
 - ミュージカル「ダンサー」(主演:谷 寿美)テアトル花座 (協会主催:24公演 ) 総勢18名
 - レビュー「ダンシング・ビート・ジャパン」 (日本国政府主催:12公演) 総勢12名
 - ミュージカル「狂言 花子」 (大阪府主催: 12公演) 総勢8名
1991年
-日本郵船所有客船「飛鳥」のデビュークルーズおよび飛鳥レギュラーディナーショーの製作上演、ISP オリジナル・ディナーショーの製作上演。
– 翌年同飛鳥のエンターテイメントアドバイザーとなり、その再構築に携わる。
1993年
-前出のミュージカル「ダンサー」リメイク版、東京・青山劇場にて3公演。続いて、翌年には、大阪・フェスティバルホールにて2公演。(後援: 大阪府・21世紀協会・NHKを除く在阪全局)
1994年
-関西電力ミュージカル「アリスのふしぎな冒険」の製作・上演
-グランビア大阪・プラザホテル・リーガロイヤル等での谷 寿美 ディナーショーの 製作・上演
1996年
-ミズノ創立90周年記念としてミュージカル「ダンサー」の製作・上演。
 東京(ゆうぽうと)/大阪(シアタードラマシティ)にて約一ヶ月の公演。
– この模様はNHKにて全編中継録画、2度に渡り ON AIRされる。
1997年
– 男子世界ハンドボール選手権の公式テーマソング及び応援歌をプロデュース
– 大阪府なみはや国体のテーマソングを谷寿美・Makiさんが所属した「プリンセスクラブ」が歌唱。
– 京都駅ビル「シアター1200 」(現京都劇場)の、ジャニーズファンタジーに、ダンサー20余名がレギュラー出演。翌年には、劇場ブロデュースに携わり、ジャニーズファタジー・ホリプロミュージカル・吉本興業等の製作に関わる。
1999年
– 同上劇場[1月特別公演]として、ISPオリジナル「京都レビュー」の製作上演。
– 熊本県未来国体開会式の振付アドバイザーとなる。 (この時、平成天皇を間近で拝見、感動しました(笑))
2002年
– 本社をフリーウェイ・ダンススタジオと共に大阪市西区北堀江に移転。
– フリーウェイ・ダンススタジオのイベント製作並びにインストラクターの育成に携わる。
– 貝塚市文化振興財団主催にて、市民参加ミュージカルの製作上演に携わる。
– 大阪いずみ市民生活協同組合文化鑑賞会の例会上演に携わる。

と、まぁ、バブル崩壊後もそれなりに生きています。(笑)残念なことは、私たちが当時お世話になった大半と云うか、ほとんどの企画会社なりイベンターさんが倒産、もしくはそれに近い状況にあることです。「あの25年は何やったんや〜、ちゅうねん」と呟いたクライアントさんの言葉が耳から離れません。今となれば、今も現役で働かせていただいているのはひょっとして関西では私だけ?! う〜ん、微妙ですね。

このブログは、そんなフリーウェイ・ダンススタジオのオーナー「片山知子」が、気まぐれにポチポチ綴る雑感…趣味のブログです。

ダンススクール大阪|フリーウェイ・ダンススタジオ

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